木地は蒼社川の上流木地川に沿って、仏ケ峠の麓祓川から奥4kmにわたって、下木地と上木地が点在していた。
木地の祖先は、屋島と壇ノ浦で戦われた源平合戦に敗れた平家一族がちりぢりになって、四国の各山間部等に逃げのびたうちの一族であると言われている。
その逃げのびた場所は、上木地から4㎞程奥の石小屋で、ここには大きな岩があり、その下に畳八畳敷もある大穴があり、雨露がしのげると言われている。
その一族の中に門脇中納言がいて、一族をまとめていった。現在氏神として祀られている。
木地奥山は原始林で、漆器の原料となるブナの木が多くあり、木地師が入って、木地を製造して長らく住んでいた。
上木地より4km程奥に〝木地屋〟の地名があり、さらに2km程奥の国有林の中にも〝元木地屋〟・〝墓場〟などの地名が伝えられている。
江戸時代までは、武士以外には苗字はなかった。苗字が許されたのは明治3年で、さらに明治8年2月13日の大政官布告で、国民全員に苗字を付けるよう義務付けられる。
木地の人達も苗字を付けなければならないことになった。そこで上木地の人達は、庄屋以外は全部下木地の庄屋の門田姓を付けた。下木地の人達は庄屋の〝門田〟の〝門〟の一字を取り〝門岡〟としたり、稲の田を思い浮べ〝稲田〟としたりで、〝門岡〟と〝稲田〟が多い。
林道の開通前は、鈍川温泉から奥祓川までは、兎道すらもない急俊な渓谷であった。したがって今治方面へのルートは、干疋峠、神子ノ森、奈良の木、窓ノ峠、小鴨部、別所、八幡、五十嵐、中寺等を経由する道と祓川、仏ヶ峠、中通、大下、長谷、三反地、大野、法界寺、高橋等を経由する道があった。
昭和初期に木地まで林道が、さらに木地奥まで軌道が開通し、原始林から伐採、運搬等で人々が大勢入り込み賑わった。また二千町歩からなる部落林の活用により、かなり裕福な生活ができたようである。
しかし、米を作るための水田を開墾するのには、大層苦労をしたようである。少しの平垣な土地があれば、高い石垣を築き、何粁にもわたって水路をつくり、水を引くなど。今は杉林になってしまっているが、田圃の跡がこここに見受けられる。
この木地も昭和40年代には広大な原始林も伐採しつくし、さらに木材の自由化により、急速に衰え、昭和43年4月には、ついに一人も住民がいなくなった。
学校も、明治5年学制が領布され、鈍川村成諒小学の創立に伴い、木地村にもその分校が設置され、昭和44年廃校。明治43年当時木地分校の生徒数は51名(鈍川村の生徒数は304名)、戸数61戸との記録がある。
大正14年に木地川土工森林組合が発足し、初代組合長に古屋ノ谷越智重太郎氏を選任し、林道の開設がはしまった。
鈍川玉川を起点に下木地庄ケ成までは幅9尺(2.7m)の荷馬車道。第一工区は玉川より祓川まで5kmを2年間で、第二工区は祓川から土場まで3km、昭和3年に開通した。
土場から奥は、西条営林署が木地奥まで8㎞、幅6尺(1.8m)の軌道を開通させた。
この林道等の開通により、木地川流域山林三千町歩からの生産物の運搬が容易になり、運賃も大幅に安くなった。国有林等の伐採、運搬等で人々が大勢入り込み活況を呈するようになった。
さらに文明のカトラックを使用するために、昭和22年2月から幅4.2mに拡張するための工事がはじまり、3年間かかり、昭和25年に完成した。
鈍川木地の沿革〃、鈍川小学校創立百周年記念誌″を参考とする。
青井 三郎