13、龍岡上



(7) 龍岡寺

高野山真言宗、理観山医王院龍岡寺。
 龍岡寺は昭和36年の大火で、本尊をはじめ古記録、堂宇は焼失してしまった。
 本尊は薬師如来で、秘仏で開基以来開帳せずに焼失してしまったとのこと、残念である。
 寺歴を玉川町誌から拾ってみると、延喜年間(901~23)開基。
 長久3年(1042)源頼義、龍岡寺と光林寺に薬師堂を建立す。
 建徳2年(1371)龍岡寺の大般若経写経始まる。
 文中2年(1373)神岡寺を龍岡寺と改号(12月)。
 貞享二年(1685)今治藩主松平定陳公龍岡寺の本堂再建す。
 焼失を免れた大般若経四百巻は現在玉川町指定有形文化財となっているが、残りの200巻は光蔵寺(朝倉村上朝倉)に保存されているそうです。どんな経緯でなったのか興味を覚える。
 一方、長野光雄氏(「風早」第17号)によると、龍岡寺は幸門城主であった正岡氏が、正岡郷(現在北条市)から中通城に移った保延年中(1140年頃)から承久3年(1221)頃まで、中通城主であった時期に開基したとしている。
 中世の高繩半島を支配した正岡氏の菩提寺として発達し、江戸時代には今治藩主の庇護を受け、現在に至っている。
 現在本堂に祀られている仏像で、随求明王は宝暦10年(1760)、作者仏子京都仲田右京、弘法大師像は宝暦12年(1762)、仏子京都北川運長の作。
 昭和57年、伊予府中十三石仏霊場第十三番札所として虚空蔵菩薩を祀る。
 平成6年には護摩堂を建立し、松山市在住の仏師石田嵩治氏作の不動明王を祀る。
 龍岡寺の境内には10月号で触れた日本廻国の碑、昭和51年の災害のとき、濁流の中から出現した首無し地蔵尊や隠れキリシタン碑(後号で触れたい)等々が祀られている。  

(8) オツカ(みちかつ)さん

龍岡寺の下山麓に、楠に囲まれて祀られている。
 このオツカさんは、室町幕府最後第15代将軍足利義昭と河野通宣の子章子と間に生まれた足利義勝、幼名昭王丸、後の河野通勝を祀っているとされている。
 幸門城最後の城主正岡右近文夫経政は、河野家18将の一人として、河野家末期の重要な地位にあったようである。
 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国征伐により、小早川隆景軍に、幸門城をはじめことごとく攻め落された。正岡右近大夫経政も湯月城に逃れたが、この湯月城も同年9月5日開城し、河野通直に従い竹原城に移住する。
 後に龍岡に帰り、昭王丸(当時8歳)とかかわり、これを河野通勝として養育し、河野家の再興を願ったが、どうしても秀吉が許さず、願いはかなわなかったとのこと。
 通勝も元和4年(1618)に死去。法名は龍岡寺殿義道昭王大居士。
 オツカさんには花崗岩製五輪塔3基と隠れキリシタン碑3基が祀られており、塚堂の横には円形の囲があり、その中に、自分の願望などを小石に書いて置き祈願すると、霊験あらたかにも、願いを聞いて下さるとのこと。  

玉川町誌、風早第17号(昭和62年4月1日発行)を参考とし、渡部自弘氏にお聞きする。
 青井 三郎

玉川ウォッチング