7、御厩



(1)天満神社

祭神は大山積命・大己貴命・菅原道真公神。  文武天皇の元年(697)小千宿禰玉興が、大和国葛城山より役小角を迎え深山を開き、河を造り、道路を築き、里を構え て民福をはかった。  玉興はさらに小角のすすめで一言主命を勧請し、正暦(990~994)の頃京都北野から菅原道真公の霊を勧請している。  境内は406平方メートルで、社殿のある平地を除けばかなり険しく、昭和47年の水害では被害を受け、社殿は48年に建て替えている。  樹木では、オガタマノキ(日通り190cm)で大洲市上須戒の天満神社のもの(230cm)に次ぐ県下第二の大木。 エノキ(310cm)、イロハモミジ(230cm)、モツコク(120cm)、スギ(245cm~260cm)の大木が数本ある。  石造物では、幟立が慶応2年(1866)、「村社天満神」の社名石は大正6年(1917)、鳥居は 天保4年(1832)、狛犬は嘉永5年(1852)の銘がある。  道路から社殿までの石段は急で、所々が狂っていて歩きにくい。

(2) カンノン(観音)さん

シキミの古木の元にカンノン さんが祀られており、昔は花火をするなど賑やかであったそうである。木造の仏像はいたみがひどく、 さだかではないが手の様子等からお地蔵さんかもしれない。
入口の自然石の常夜燈は文化12年(1815)、六地蔵さ んは文化10年(1813)の銘がある。これらのことからシキミの古木は200年近くたってい るのでは?。

(3) ″御廐″の由来

現在は″御廐″となっているが江戸時代中期頃までは″御馬屋村″であったらしい。
桂木神社の狛犬(寛政12年・1800年)に銘記されている。また、宝蔵寺の過去帳にも初期の正保2年 (1645)頃は御馬屋村である。後になって御廐村がでてきて、御馬屋村と御廐村が交って書かれている。
これらのこと等から推察すると、御廐は中世頃は幸門城の城下として繁栄していたのではなかろうか。 江戸時代になっても、今治藩の馬の牧場であったとも聞いたことがある。
地形などからみても、山もなだらかで、草刈場に最適。牛や馬などの飼料や田畑の肥料として刈草がふんだんに生産された ことだろう。
宝蔵寺の過去帳に記載されているのは、最初頃は御馬屋村だけ、後年になって桂が出てくる。このことからも、 御廐がまず開け、桂から鍋地・与和木と順次開けて行ったと推測することができる。
また、御廐は、ハトザカを越えて葛谷へ。石山から無線中継所を越え菊間町へ。途中から大西町山之内へと メインストリートとして、大変賑わったようである。観音さんのお祀りには、花火も打ち上げられるなど、 それは賑わったそうである。

(4) 石造物等

品部聰美さん宅の裏山に、風格のある五輪塔が2基祀られている。1基は一部欠けているが、 相当古そうである。当家に尋ねても、全然わからないとのこと。
この品部さん宅から少し下った所の柿ノ木坂に隠れキリシタン石と見られる碑の上辺の一部が祀られている。
この隠れキリシタン石の山ぎわの杉の古木の株元に妙見さんが祀られている。
品部エミ子さんのお話によると、山ノ神さん、弁天さん、幸門権現さんの3神を合祀して、 旧暦では8月17日、現在では新暦で9月15日にお祀りしているそうです。山ノ神様は品部さんの裏山の小高い所に祠を 建て祀られている。

(5) 石山

大正から昭和18年頃まで、石が堀られた。
種類は長石や珪石で、人の手やダイナマイトなどを使って掘り出し、それを水で洗って馬車に積み、 今治から大阪に船で送ったそうです。
色のついた石は、せいぜいビールビンや薬ビンで、長石はガラスになり、珪石は熱に強いので大砲のたまなどに 使ったそうです。
戦争で人手や船の油がなくなり、輸送も困難になって、石堀リは中止され、そのままになっている。  この石山も、戦前は相当住んでいたようであるが、戦後は3軒になり、昭和50年頃からは無人となっている。  石の発堀跡を調査したいが、夏草が生茂り、どうにもならないので、未調査のままである。
石山は「玉川の民話」(玉川町教育研究会昭和44年発行)による。鴨川鹿好氏・品部光敏氏・ 品部エミ子さんにお聞きする。

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