12、葛谷



(2) 宝泉寺

宝泉寺は曹洞宗で、本尊は聖観世音菩薩である。
 当山は文明5年(1473)に、大庵須益大和尚によって中興開山された。
 安政5年(1858)現在地の上部にあったものを現在地に改めて再建した。当時の住僧は中興13代智見大和尚であった。その後明治17年に本堂が大破したので修築し、昭和40年に現在の建物に改築したものである。  

(3) 元庄屋(服藤辰雄氏宅)のキネリガキ

今治藩では各庄屋にキネリガキとナシの苗木を1本ずつ植栽させたそうです。このキネリガキは、目通り2.1m、樹高22m、樹齢350年以上とのこと。現在も実をたくさんつけるそうで、甘いのは二割程度。毘肉にゴマのような黒い粒々が多いものが甘く、白くてきれいなものは渋いそうです。  
町内では鬼原の武田邸にキネリガキが、三反地桑原邸にナシが残っている。 

(4) お薬師さん

服藤フク氏宅の奥側にお薬師さんが祀られており、毎年旧暦の7月8日に開帳するそうです。
 江戸時には一時ごはっこうして、大変賑ったことがあるそうです。  

(5) 馬頭観音

無線中継所への登り口に祀られているが、詳細はわからない。  

(6) 逼路墓

無線中継所直下の分れ道の所に、なかなか立派なお地蔵さんが祀られている。
 お遍路さんを祀っているとのことであるが、遍路道からもはずれていることだし、どんな理由で祀られているのか興味をおぼえる。  

(7) 無線中継所

昭和18年5月工事着工。同20年10月松山無線電気通信工事局龍岡駐在が設置され、同21年6月運用開始。同24年6月龍岡無線中継所に改称される。
 戦争中には、機銃掃射を受けたこともあるそうです。  

(8) その他

葛谷は以前は90戸以上あったが、現在は40戸を割り、90名に滅少した。しかも65歳以上が60%以上。典型的な過疎地帯となった。道路も拡がり車で今治市街地まで三十分以内で行けるように便利になったにもかかわらずである。  

玉川町誌を参考とし服藤乕雄氏にお聞きする。
 青井 三郎


(9) 日本大社供養塔

(五輪塔)
 服藤乕雄氏宅の東の道路上に五輪塔があり、その上の山際には庄屋服藤家の墓がある。
 この五輪塔には「日本大社供養塔」、文政12年(1829)、当村行者服藤九右ヱ門と刻まれている。服藤乕雄氏にお聞きすると、庄屋服藤九右ヱ門さんが全国の主だった神社仏閣にお参りして集めたお礼を納めた供養塔とのこと。
 私が興味を覚えたことは、江戸時代後期には、もう「日本」と言う観念が農民にまで浸透していること。庄屋ではあるが一農民が、全国の神社仏閣を廻っていることである。
 桂の鴨川寿和氏宅に「奉巡拝日本大社霊場」の版木が残っているとのこと。お借りして、阿部秀雄氏、渡辺真憲氏、白川公氏にお聞きすると、お参りをしたときに納めるお札を刷る版木ではなかろうかとのこと。しかし「日本大社」の特定はできなかった。この版木は、講の世話人か、又は講に当って旅をする人が保管していたものであろう。「霊場」の文字もあることから、神社のみならず仏閣も含まれていたことだろう。
 龍岡寺の一角に、一石五輪塔で「日本巡国」、寛政3年(1791)、施主山崎新右衛門と刻まれているものがある。渡部自弘氏にお聞きすると、六部さん(66部の法華経を書写して、全国66ヶ所の霊場を巡礼し、奉納する修行者)を供養しているとか。龍岡寺には、もう一つ日本巡国の供養塔がある。
 その他お釈迦さんの丁石にも宝暦2年(1752)、大阪住津田孝伯立之と刻まれている。
 このことから、玉川町でも江戸時代後期になると、行者等相当お参りがあったようだ。それらは、和霊さん、お釈迦さん、龍岡寺、奈良原さん、光林寺、仙遊寺、八福寺、石清水八幡さん等であったのだろう。
 玉川町の人々も、村ごとに講を作り、村を代表して全国の寺社を巡拝していたようである。
 「歴史街道」9月号の記事に、文化文政年間(1804~30)になると、一般庶民の旅行が盛んになった。一例として関東地方のある村の農民が天保8年(1837)12月から翌年3月まで3ヶ月間で、伊勢神宮、熊野神社、奈良、京都を廻って、四国の金比羅さん、更に宮島さんから岩国の錦帯橋まで行って、帰りに天橋立から信濃善光寺に寄っている記録が残っているそうです。
 このような旅は男性でなく、主婦達も旅にでたとのこと。
 旅の目的は、諸国の御利益のあるとされている寺社を総巡りして、五穀豊穣、無病息災、家内安全を祈願することであるが、農民にとっては、農具や新しい品種の改良等、諸国の情報の収集や文化の交流の役割も果たしたことだろう。平成七年度日本人の海外旅行者が1500万人を越えたとのこと。江戸の昔から旅行好きな素顔が見えて興味深い。
 「日本」のルーツを探ってみると、神武天皇建国の地、大和「ヤマト」を国号とし、中国では「倭」と呼んだ。中国と修交した大化改新頃も東方即ち日の本の意から「日本」と書いて「ヤマト」と読み、奈良時代以降「二ホン」、「ニッポン」と音読するようになったとのこと。
 「日本」は古く奈良時代から使われていたらしい。認識を新らたにした次第である。

阿部秀雄氏にお聞きする。
 青井 三郎

玉川ウォッチング