14、木地(鈍川)



(2)国宝多宝塔

昭和9年8月26日午前10時頃、奈良原神社の境内で、雨乞をするため掃除中・門田福次郎・門田鹿一両氏(上木地)が社殿の東南隅のやや小高くなっている所の雑草を刈っていると、石の間に穴があいているのを発見し、上の石を掘り起こすと、「皇宋通宝」等の支那銭が多く出てきたので、さらに掘っていくと、多宝塔の九輪頭部が出てきた。両人はびっくりして、急いで下山し、鈍川村役場に報告した。鈍川村長正岡多八氏は直ちに今治警察署に届け出た。

 8月29日午後4時頃から発掘に着手し、今治中学校教諭玉田栄二郎氏の指揮により、出土遺物を取り出し、午後6時頃掘り終った。

 出土した遺物は、全て奈良原神社の本殿に安置して、終夜不寝の番をして、翌30日も発掘を行った。

この時経塚から出土した遺物は次のとおりで、その埋蔵状況は次図のとおりである。

  1. 多宝塔(筒部銀、他は青銅製) 一
  2.  
  3. 経筒(青銅製)   一
  4.  
  5. 錙鏡(円鏡三、方鏡二)五
  6.  
  7. 短刀      十八
  8.  
  9. 檜扇「一は左右の親骨は銀製」二
  10.  
  11. 香盒 二
  12.  
  13. 簪(純金製冠用) 一
  14.  
  15. 瓔珞金具     四
  16.  
  17. 小鈴(大・小)  六
  18.  
  19. 環状金具     四
  20. 瓶(祝部式土器類似素焼)三等であるが、この経塚の上には建徳2年(1371)の銘のある石製多宝塔が一基安置されている。
 

8月31日に鈍川村長が愛媛県庁に出向き、この遺跡の調査方を懇請した結果、鵜久森経峰氏が任命され、9月4日から綿密に調査された。

 この遺跡は、死者そのものを埋葬した古墳ではなく、写経を埋葬して供養する経塚である。

 遺跡の主体は、経塚一箇と多宝塔一基で、その中には写経が納められており、あたかも巻きずしのような形をして黒く腐朽していたとの事。

 このように信仰上から写経を土中に埋葬する習慣は、平安朝の末期藤原時代からあって、自他平等利益の思想とか弥勒出世を予期する思想に立脚したものが多いようであるが、鎌倉時代から室町時代になると、だんだん浄土教が盛んに行われ、経塚築造の目的も死者の追善供養の思想が最も濃厚となった。

 この経塚は、短刀が鞘のまま突き差されている事、多宝塔の筒の中に砂が入れてあった事(この砂は、追善供養する人の墓地の砂か、この多宝塔がもと埋めてあった古権現の経塚の砂か)、副葬遺物の中の冠用の純金製簪二と檜扇二は死者の形見の品を副葬したものであって、相当地位のある貴紳の関係者(渡辺眞憲氏によると、ほぼ長慶天皇にまちがいなかろうとの事)の追善供養を兼ね築造されたものであろう。

 結論として、奈良原山上のこの経塚は、南北朝時代の末期建徳元年(1370)3月に奈良原権現の上葺をし、その翌2年12月に光林寺又は蓮華寺に関係のある住侶権律師浄が願主となって築造したもので、その中の多宝塔はもと古権現に埋蔵されていたものを、この時ここに改葬したものであろう。 

なお、この多宝塔は現在国宝に指定され、玉川近代美術館に他の副蔵品と共に展示されている。

 “伊予国越智郡奈良原神社境内経塚の研究”鵜久森経峰著を参考とし、渡辺眞憲氏にお聞きする。  

青井 三郎

玉川ウォッチング