14、木地(鈍川)



(6)千疋峠と仏ヶ峠

仏ヶ峠から千疋峠は、長慶天皇の伝説もあるが、山桜はそれは美事であった。戦後昭和20年代頃までは、今治にあった旧制中学校や玉川町内各学校の春の遠足のメッカでもあった。私も小学校2年の時、遠足で竜岡小学校から中通りを経て仏ヶ峠まで往復した経験があり、大木の桜があり、大変美事であったことと、遠くて歩き疲れたことが印像に残っている。

 昭和11年4月21日に吉井勇がこの地に登られ、この桜を見て“大君の桜咲きけりかしこみて千疋峠の花をおろがむ”と詠まれた。

 その翌昭和12年に鈍川村史跡勝景保存会がこの歌碑を建てた。この歌碑の基礎石は竹ヶ成寄りの池の谷から、碑石は今治市の石工がほり、馬車で木地土場まで運び、土場から営林署の軌道で中木地橋台まで上げ、橋台から木地の人達が運び上げて建てた。

 文部省史蹟名勝天然記念物調査委員が、昭和12年4月23日と同14年3月17日の二回にわたり調査し、同16年12月13日国指定の名勝に指定されている。

 調査委員の所感によると、

 “千疋桜はなかなか美事なものだ。緑したたるごとき緑葉造林の中に、白く続くでもなく切れるでもなく点綴する景色は全国でも希なもので、かくも立派なものがこの田舎の山奥に今日まで埋れていたとは意外な気さえする。3つの美点は保養林の中における桜の対照のよさ。何百年もの樹齢を経て歴史的な由緒を保っていること。と仏ヶ峠から千疋峠に至る沿道の風光の美しいことである。吉野の桜に次ぐものと言っても良い。

 もしそれまで行かなくとも嵐山・小金井に次いで、全国3・4番に位するものである。惜しいことに交通の便に恵まれないのと、大都会から遠いことで、この点を将来考慮に入れれば、あるいは吉野を凌ぐものと言い得るようになるだろう!”と述べられており、いかに千疋峠や仏ヶ峠の桜が全国的に見ても吉野に勝るとも劣らない美事なものであったかが伺える。

 その時の桜並木の調査によると、

     
  • 千疋峠165本(枯死14)
  •  
  • 仏ヶ峠215本(枯死 2)
  •   
  • その他枯死20本余
  •  
  • 参道下木地118本
  •   
  • その他枯死16本
  •  
  • 参道上木地148本(枯死2)
  •   
  • その他枯死39本
  •  
  • 合計 646本(枯死18)
  •   
  • その他枯死75本
  •  

    総計721本

 これに竜岡側2本の参道を加えると千本余の山桜が咲き競っていたに違いない。

 昭和14年頃既に15%近く枯死していたようである。昭和25、6年頃から樹勢が次第に衰えはじめ、昭和30年頃全て枯れてしまったらしい。

 なかでも仏ヶ峠の傘桜は有名で、胸高の周囲3・5mもあり、枝ぶりが洋傘をさした形に見え、それは美事であったとのこと。

 この山桜は、おそらく悲劇の長慶天皇をお慰めするため、吉野山を模して植えられたものであろう。これを見ても、私達の先祖はいかに信仰深かったかが伺える。

 このような千二百年以上にわたって深く熱烈に信仰され続けられた奈良原さんも、昭和30年以後の高度成長期に入り、わずか40年程の間に、忘れ去られ、誰も顧みられなくなった事実!!

 何と私達人間は浅はかなことだろう。

 平成6年の旱魃は、そんな浅はかな私達に対する警告のシグナルかもしれない。

 私の夢は、何とかこれら参道等に山桜を植え、昔時の姿にもどせないものだろうか。

“鈍川木地の沿革”を参考とし、阿部秀雄氏にお聞きする。

青井 三郎

玉川ウォッチング