14、木地(鈍川)



(3)長慶天皇と奈良原神牡

長慶天皇は、南北朝時代、南朝方で悲劇の天皇であった。

 その伝説等は北は青森県三戸地方から、南は福岡の大宰府まで、全国百か所以上の地で語り継がれていること等から、長慶天皇はおそらく京都では崩御されていないのではなかろうか(渡邊眞憲氏説)。

 明治期に入り、全国各地から長慶天皇関係資料を集め、調査した結果、やっと大正15年10月21日の詔書によって、第98代天皇と定められた。  

 “長慶天皇は、後村上天皇の第一皇子として興国4年(1343)誕生・名は寛成、正平23年(1368)3月21日父帝崩御のあとを継がれ、41歳の弘和3年(1383)皇弟?成(後亀山天皇)に譲位、覚理法皇となる。在位16年。応永元年(1394)8月1日52歳で崩ず”と明らかにされた。

 御陵も昭和19年2月11日に京都の嵯峨に造営され、嵯峨東陵と呼ばれている。

 我が玉川町には、各地に長慶天皇にまつわる伝説等が多く伝承されており、潜幸された可能性は大変高いとのこと。

 その第1の理由は、奈良原神社は役小角が開山したと伝えられているとおり、奈良原神社を基点に古権現から東三方ヶ森一帯は山岳宗教のメッカ、修験者の道場として栄え、南北朝時代当時多い時で38人もの山伏がいたとの記録がある。これら山伏は当然に吉野山と繋っていた。

 第2に、玉川は当時全国的に非常に少なかった南朝方であった。宝積寺の大般若経六百巻は、長慶天皇の文中2年(1373)から天授4年(1378)の約6年間に写経されたものが大部分で、堂々と南朝方の年号が明記されている。

 西南聖蹟史(文明8年1476)・鳳闕乱諍第五巻・聖明縮襲録・天神社及び龍岡寺、奈良原神社の由来記等を総合してみると、およそ次のようである。

 元中2年(1385)春、十津川の合戦で南朝方敗れ、紀伊国高野山に落ち行き、仏衣に替え、玉川の里に潜幸される。ここも危険になり、高野山聖僧の免許状を金剛峯寺が奇策して、役僧が案内して根来寺に一夜を明かし、紀州歌多の津より小舟に乗り、阿波国富田の庄に着く。 

 新居の御所に宿泊のとき、讃岐の細川の一族が攻めてきたので、ひそかに小舟で越智郡国府の浦(今治市国分)に着き、光林寺に逃れ、更に龍岡を越え、奈良原の山中に潜む。岡の城に入られたときから幸門城と称す。

 ここも危なくなり、久米郡山内保の御所、黒木の宮を造り移る。

 翌元中3年正月、温泉郷湯の北多幸山天徳寺弥勒院から安養寺に移り、2月の中頃徳威三島の宮に忍ぶ。3月の中頃から菅生の山大宝寺の覚理坊に潜む。

 4月8日から一帯で戦が始まり、4月10日ついに山野崎徳威原に退き、激戦のため法皇は疵を負い、同12日法水院神宮寺に入り崩御される。  

西南聖蹟史には
 御製

 世にあらば光そまざる月影の
 まだ奥深き玉川の里
 まさ流す丹生の仙川秋ふけて
 幾山の端を廻り来ぬらん
 妃観子御歌
 ほしあゑぬ袖だに露をます鐘
 徳威の宮にうつすみこころ

と高野山において出家されて、
伊予国に臨幸されたことが記され、上皇と皇妃の御心中を詠まれた和歌が添えられている。
更に決定的なのが、国宝になっている多宝塔が発見されたことである。
阿部秀雄氏、渡邊眞憲氏にお聞きする。

青井 三郎

玉川ウォッチング