奈良原神社は楢原山(1,042m)の山頂にあった。
社伝によると持統4年(689年)、国司小千宿禰玉興が大和葛城山より役小角を迎え、開山したと伝えられ、高繩半島の山岳宗教の中心となり修験道の行場として栄えた。神仏混交時代には末寺を合わせて48人もの常住僧がいたと言われている。
祭神は牛馬五穀をつかさどる伊佐奈伎命と、弘和2年(1382)の南北朝時代に、南朝方の長慶天皇が伊予の南朝方の土居・得能氏等に迎えられて、楢原山に御潜幸されたといわれ、衣冠束帯をつけ、牛の背にまたがった天皇の木像も祭神として合祀されており、牛馬の保護祈願所として信仰が厚かった。
また、祈雨に関係の深い子守明神や勝手明神の社壇があった。この子守明神は奈良の吉野山の水分神社に相当し、水分神社は水配りの神で、水を司り一般に山の分水嶺に祀れ、祈雨の神として広く崇拝されていた。
このように、蒼社川の水源地に当たる高繩山系中の東三方ヶ森、古権現、楢原山は、奈良の吉野山中における金峰山や大峰等のように、この地方の霊地として発達したようである。
奈良原神社は、信仰のメッカとして発展し、お縁日である旧暦8月の丑の日と午の日には、今治地方のみならず、県内外からも大勢の参拝者があり、大変賑わっていた。
その証跡は参道にある立派な鳥居や丁石、山頂付近にある手洗石、県指定の天然記念物になっている子持ち杉等いろいろ残っている。
ただ残念なのは、昭和20年代までは、吉野山にも劣らないような美事な山桜の名所であった千疋や仏ヶ峠、各参道にあった山桜の古木はことごとく枯れていった事である。何とか昔のとおり、この山桜の復活はできないものであろうか?
以下奈良原神社関係の歴史を拾ってみよう。
玉川町誌、鈍川木地の沿革(奈良原神社総代編集)、経塚の研究(鵜久森経峰著)を参考とし渡辺真憲氏にお聞きする。
青井 三郎