主な参道は
① 奥道後・水ヶ峠・トンネル奥・奈良原神社
このコースは、もっぱら松山方面からの専用の参道であったようだ。
松山市日浦に万延元年(1860)の道標・水ヶ峠に文政3年(1820)九河村のお地蔵さん・三十五丁(和気郡下伊代村)、トンネルの中に三十一丁(風早郡菅沢村)、十八丁(風早郡神次郎村)、十三丁(温泉郡)、十丁(久米郡)と並んで八丁(風早郡)いずれも地蔵型の丁石がある。トンネル奥に大正5年の鳥居と登山口に明治40年の道標がある。
このことから、松山方面からも大勢の参拝客があり、大変賑わったことだろう。
② 力石から蒼社川を渡り、岩門神社・奈良原神社
蒼社川を渡った所に、天保6年(1835)周囲約160㎝(大きさでは石清水八幡さんの鳥居に次ぐ)の立派な鳥居がある。この参道の丁石は石柱型であるが、四十七丁から、ほぼ二丁ごとに残っている。二十二丁まで辿ってみたが、倒れたり、土に埋れたり、参道に切った木を放り込んだままになったりで、荒れたままになっている。
鳥居の立派さ等から、参拝者の通行も多かった事が伺える。
③ 鈍川中通・仏ヶ峠・祓川・下木地・奈良原神社
仏ヶ峠の桜は、それは美事であった。私も龍岡小2年(昭和20年頃)遠足で行って、しんどかったことと大きな美事な桜であったことが今も脳裡に残っている。
①と②、③の合流地点の少し上に天保11年(1840)町谷村の立派な手洗石がある。あんな重い石をどうやって運んだものだろうか?
④ 神子ノ森・千疋峠・竹ヶ成・上木地・奈良原神社
干疋峠は昭和18年に指定された国指定の名所となっており、ここの桜も大変美事であったようだ。吉井勇の歌碑“大君の桜咲きけりかしこみて千疋峠の花をおろがむ”がある。天保5年(1834)の鳥居もあり、奈良原さんの遙拝所にもなっている。
上木地の登山口には、明治45年の道標も残っている。
⑤ その他
温泉郡重信町方面から、白潰を越えてくるコース。東予市黒ノ谷からコタマゴを越え上木地のコース。丸山を経由するコース等もあったようだ。
奈良原神社は、平安時代は山岳宗教のメッカとして山伏等も大勢いたようであるが、牛馬の神様として、農民等民衆が大勢でお参りするようになったのは江戸後期から昭和20年代頃までらしい。それも農家の牛馬の飼育が盛になった時期と一致し、田の耕作が牛馬からトラクターに代った現在では、急速に衰退していった。
奈良原さんが賑わったのは、今治藩主が光林寺に牛馬の神様のお礼の版権を与えたこと。三反以上の耕作者は奈良原さんにお参りをすることとのお触れを出したことにもよるらしい。
これら参拝者が長慶天皇をお慕いし、吉野山のように桜を植栽しお慰めしたのが切掛らしい。
今はその桜も枯れてしまい、昔の面影もない。
私の夢は、この各参道を整備してハイキングコースとするとともに、山桜を植え、何とか名実ともに桜の名所として復活させたいと願っている。
渡邊眞憲氏にお聞きする。
青井 三郎