第22回 玉川町畑寺の古刹 光林寺のご住職 渡邊 眞憲 氏



髙野 友倫 氏

「この人に聞く」第22回目は、玉川町畑寺の古刹「光林寺」のご住職渡邊眞憲氏です。
立派な仁王門のそばを通り抜け、坂を上がると、境内からは正面に楢原山を眺めることが出来ます。ご住職の奥様がにこやかに迎えてくださり、玄関から本堂脇の部屋まで案内いただきました。
出てこられたご住職の首にかかっている半袈裟には、菊の御紋が入っており、宮内庁とのつながりも深いこともわかります。

スタッフ:
ご住職は、とてもはつらつとされていますが、お幾つになられましたか?
住職:
つい先だって誕生日でして、68歳になりました。
スタッフ:
お寺のご住職を職業としてはっきりと意識されたのはいつのことでしたか?
住職:
高校卒業後は高野山大学に進み、卒業後は親父の勧めで東予市のお寺で修行をさせていただきました。大きな声での読経を毎日行い、真面目に修行していましたが、そこのご住職が亡くなられたのを機にここに戻ってきました。
それからは親父と共に、檀家回りをしたり、お寺の行事を教えてもらったり、十数年間一緒に過ごしました。
スタッフ:
お父様とそのように長く一緒に仕事が出来たことは、お二人にとって幸せなことでしたね。
住職:
そうですね。親父が74歳で亡くなり、それからは私ひとりで頑張っています。
スタッフ:
38歳で代替わりされてから30年になりますね。
ところで光林寺は開創何年で、眞憲さんは何代目ですか?
住職:
今年で1317年目、私で143代です。
スタッフ:
まぁ!1317年目で143代ですか!
歴史があるとは聞いていましたが、それほどとは・・・・。
住職:
江戸時代は今治藩のお寺でしたが、当時の記録では100年で19代変わっています。
一代が5・6年だったようですが、明治時代に祖父がこちらに来てからは、3代目の私で100年を越えています。境内は宮内庁の管轄で、この半袈裟にも菊のご紋を使わせていただいているというわけです。
スタッフ:
他にも宮内庁とのかかわりはありますか?
住職:
はい、平成16年の災害で崩れた、長慶天皇の第3皇子「尊(そん)聖(せい)皇子」やお妃の「観(かん)子(し)妃(ひ)」のお墓を作り直した時です。これらはもともとかなり古いお墓で、地元奈良の木の人がずっとお祀りしていたことや、地名の宮ノ上などから察して高貴な方のお墓であろうということになり、玉川に御潜行されてきた長慶天皇との関わりもいろいろと宮内庁に確認していただきました。お墓を作り直すこともお許しいただいています。
又、長慶天皇がこの光林寺に滞在されたことを記念する塔を境内に建立する時も、私が足を運んで、許可をいただいています。
スタッフ:
そういえば、菊のご紋の入った黄金色の立派な供養塔が、出来ていますね。
ところで、ご住職の一日のスケジュールはどんな感じでしょうか?
住職:
毎朝7合のご飯を炊いて、それぞれの仏様にお供えして読経するのが朝のお勤めです。お米は檀家の皆さんが持ってきてくれるので、ずいぶん助かっています。
私自身の朝食は意外にもパン食なんです(一同笑)
本日で言えば、10時から法事、11時半からお客様、13時から葬儀、帰ってきてこのインタビュー、17時半からお通夜と・・・超忙しいのです(笑)
スタッフ:
檀家さんも多いですし、お一人では大変ですね。
住職:
そうですね。住職もいろいろな仕事がありますから。そういえば、最近は生前に戒名をつける方が増えてきました。
極楽浄土に着いた時に呼ばれるのは戒名です。自分の戒名を覚えてなかったら返事ができなくて大変でしょう。ですから生前に決めておきたいという方が増えています。
スタッフ:
戒名というのは、そもそもご住職がその方を想像してつけるんですか?
住職:
生前につける時は、いろいろなことについてご自身にお聞きします。職業、趣味、性格、希望する文字などを書き出してもらい、その方と相談して決めます。
夢、花、などは人気の漢字で、中には酒を入れて欲しいと言う人もいました(一同爆笑)
今月だけでも20人くらいつけました。人気の漢字は印をつけて重複しないように気をつけています。
スタッフ:
生きている間に好きな戒名をつけてもらうのもいいですね。
住職:
昔は生前に戒名をつけると長生きすると言われたりしました。
そして今は、家族も身よりもいない人たちが永代供養を選ぶようになり、それらの相談が増ええてきたのも時の流れと言えるでしょうかね。
戦前は所有の田畑が3町7反もあり、坊と呼ばれる建物も沢山ありましたが・・・、これもまた時代の流れです。
スタッフ:
話変わりますが、先ほども出ましたように、玉川町は悲劇の天皇といわれる長慶天皇にまつわる伝説が各地にあり、特に光林寺は関わりが深いと聞いています。私達も、今ちょうど長慶天皇の手作り紙芝居に挑戦しているので、そのことについてお聞かせください。
住職:
長慶天皇伝説は、青森から九州まで全国に100箇所くらいありますが、北朝の追っ手を逃れるために案内人を立て、吉野から高野山を経て伊予の国の光林寺にたどり着いたと記録が残っています。供養等を建てるときに宮内庁が許可して下さったことから想像すれば、この地に天皇が滞在したことは間違いないと思います。東温市にお墓があるのもうなづけます。
スタッフ:
都からずいぶん離れているここを目指したのは、どうしてでしょうか?
住職:
南北朝時代の日本は、北朝の勢力が強く領地もほとんど北朝のものでしたが、情報網は圧倒的に南朝のほうが優れていました。それは、出羽三山をはじめ、加賀の白山、富士山、信濃の戸隠、山陰の大山、紀州、伊予と山岳宗教の修験者たちの力があったからです。このことは以前NHKの「そのとき歴史が動いた」でも放映されました。当時楢原山には蔵王権現が祀られていて、全国から集まってくる修験者達が味方になってくれました。加えて、麓の光林寺には7,000人もの僧兵がいて、総門、大門、仁王門を構え領地も広く、天皇様ご一行がしばしの休息をとるには最適の場所でした。しかし、結局は追っ手を逃れて楢原山を越え東温市方面に移って行かれたのです。
スタッフ:
なるほど、玉川の民話の中にも度々登場する長慶天皇との深いつながりが良く分かりました。なんとなく知ってるけれど、詳しいことは聞いたことがないという町内の皆さんにも、紙芝居を通じて伝えていきたいと思います。
桜の名所と歌われた千疋峠も関係があると思いますか?
住職:
楢原山の神様と吉野山の神様はほぼ同じで、長慶天皇にゆかりの地だから西の吉野にしようと桜が植えられたと言われています。昭和30年代に文部省が調査に入った時は、大人が両手で抱えるような大木が枯れてしまったものも加えると数千本もあったそうです。それは、千疋峠にもありました。私が子供の頃には、春になると裏の白山神社から正面に見える楢原山の登山道が何本ものピンクの線に見えていました。今も山頂に供養塔とかかれたものがあるのは、長慶天皇のものだと思います。
スタッフ:
遠い昔も今も、楢原山が玉川町民から親しまれているのも分かりますね。
住職:
そうです。楢原山というところは、神様にも仏様にも大切なところです。
神仏混淆が許されていた1373年に山頂に祀られた阿弥陀如来像がありました。
鈍川木地の方たちが山から下ろして市内に移していたのを、京都で大解体修復して、この度、光林寺にお迎えすることができました。庭に建設中の建物は、その美しく修復された阿弥陀像をお祀りするお堂です。
スタッフ:
ずいぶん立派なものが出来ていますが、いつごろ完成の予定ですか?
住職:
去年の9月に地鎮祭を行い、今年5月完成予定です。 今は、その神仏混淆の意味さえ知らない人が増えていて・・・。 大三島の大山祇神社に合祀されていた神宮寺が55番札所だということも知っていますか? 雑学ですが今年が陰暦で言えば本当の閏年となり、陰暦の閏つきは5月です。 月の満ち欠け、すなわち29.5日を1ヶ月とする陰暦では5月が2回ある今年は、梅雨の期間が長いとも言われているんですよ。
スタッフ:
どれもこれも知らないことばかりです。
さて、このインタビューでは地域との関わりもお聞かせいただいているのですが、お寺と言えば古い言葉に「寺子屋」があるように、昔から地域との関わりが大変深かったと思います。最近はそういう意味ではお寺と地域との関係が希薄になってる気がするのですが、ご住職はどのようにお考えですか?
住職:
おっしゃる通りです。
十年程前には子ども達と一緒にお寺で寝起きして勉強したり、野山を探検する「森の寺子屋」を開催したりしたことがあります。子ども達にも評判が良かったのですが、今は総じてお寺の数が減っているのと同じように子供の数も減っています。それなら高齢者をと思っても様々な縛りがあって大変難しいです。 昔は雨でも降ろうものなら、大人も子供もお寺に集まってきていろいろとやっていました。お寺が地域のコミュニケーションづくりの場になっていたことが懐かしいですね。
そんな役割を果たせていないことは確かですが、少々多忙で身動きが取れないのも正直なところです。若い後継者が来たら、そういうこともできるかもしれません。   
スタッフ:
そうかも知れないですね。その様な時代になっていることが、寂しくもありますね。
ところで、ご住職は仕事を離れたときは、何をして楽しまれていますか?
住職:
私は「無理」「ムラ」」「無駄」が好きでして、一言で言うならやんちゃな坊主です。
あの阿弥陀堂を作るのはかなり無理をしていますし、気分はムラが多くて、無駄な遊びもよくします(笑)一人で出来るスキーが好きで、どこにでも出かけますよ。
スタッフ:
まあ!フットワークもいいですね。
そういえば、今治藩のお殿様からいただいた壷が、オランダの有名な博物館の所蔵品に似ているので、確かめるためにオランダまで行かれた話は有名ですね。
住職:
あぁ、そうですね。それを言ったら他にもいろいろそんな話がありますが(笑)
スタッフ:
光林寺さんは今治藩主の信仰もあつく、藩主からの頂き物や古文書も、宝物として文化財の指定を受けているものが多く持たれていますが、それらを公開する予定はありますか?
住職:
何年かに一度は公開していました。大切なものですから、しかるべき設備を整えて、いずれ多くの方たちに見ていただきたいと思っています。
スタッフ:
私たちも楽しみにしています。
本日は分刻みのお忙しい中、時間を取っていただき本当にありがとうございました。
編集後記:
お話を伺った部屋には、金色に輝く阿弥陀像をお祀りするお堂の模型が置かれていて、そのモダ ンな設計に完成が待ち遠しいご住職の気持ちが手に取るように分かりました。実際に阿弥陀像 や、長慶天皇の木像も拝見させていただき、改めて由緒あるお寺の歴史を感じました。
始終笑顔で、ユーモアたっぷりのお話に、最初は緊張していた私たちもとても楽しく、いろい ろと教えていただきました。光林寺の歴史は、そのまま玉川の歴史と切っても切り離せないとい うことを感じました。ますますお元気でご活躍ください。ありがとうございました。