玉川近代美術館について

元学芸員:白石和子

(1999年〜2011年)


1.徳生忠常さんについて 2.松本竣介さんについて

1. 〜 徳生忠常さんについて 〜


 玉川近代美術館(別名:徳生記念館)の開館にあたっては、玉川出身の徳生忠常さんを抜きには語れません。徳生さんは、明治34年11月、玉川町鍋地に農家の長男として生まれました。当時は、農家の長男は跡取りとして農業を継ぐのが当たり前の時代でした。しかし徳生さんは、身体があまり丈夫ではなく、農業に不向きであると自覚していました。また幼少より向上心旺盛で勤勉であった徳生さんは、小学校の教師になる夢を持っていましたので、父親には内緒で菊間町にある母親の実家から教員養成所を受験、小学校の準教員(代用教員)となりました。次に正教員の資格をとるために松山師範学校に通いますが、父親に知れ、志半ばで退学します。
 いったん実家に戻った徳生さんですが、昭和3年、商売の誘いがあり、金十円を持って上京、後に伴侶となる富佐夫人の叔父の月賦販売会社「丸共」に入社したのです。父親の期待に反して上京するには、相当の覚悟がいったことでしょう。育ててくれた両親と郷土へはいつかは恩返しができるようになろうと、年下の先輩たちに顎で使われながら、徳生さんは不眠不休、死に物狂いで働きました。そしてわずか3年後の昭和6年には大井町支店を譲り受け独立したのでした。

 順調に商売を広げていた矢先、昭和13年、日中戦争が勃発、徳生さんも出征し、翌年11月に帰還しましたが、昭和20年8月、戦局を見越し、家族で故郷玉川に戻ることにしました。故郷玉川では、九和村村議会議員、九和村民生委員の役職も引き受け、実家の農業も手伝っていましたが、体力の限界や子どもたちの教育を考え、両親に詫びながら、再び昭和23年7月上京したのでした。

昭和23年、徳生夫妻は「親孝行も出来ずにまた東京に行きます。後をよろしくお願いします。」と近所の方に挨拶をし、上京しました。当時"親孝行もせずに都会に出て行く"ことは最大の親不孝とされていました。徳生さんは、悩み苦しんで最後まで故郷を離れることに《ためらい》を隠せなかったことと想像できます。また父も息子がいかに出世成功しても、上京して息子の活躍ぶりを見ことは一度もなかったという頑固な明治男でありました。何かとても切ない時代です。

 さて、再び意を決して上京した徳生さんは、昭和25年、友人の亀井戸で不動産業を営む建築士、佐藤治郎氏と共同で月賦販売会社「丸興」(現OMCカード)を始めました。商売(月賦商売)は顧客との信頼関係の上に成り立つものです。常に人間関係を大事にして顧客の信頼を得、顧客が増えれば大量仕入ができ、仕入原価も下がり、顧客も喜ぶ…「お客さんと共に栄える」が「丸興」の基本理念として掲げられ、着実に社業は発展し、昭和40年東京株式市場で一部上場を果たしたのでした。月賦大手三社(緑屋、丸井、丸興)の中で、売り上げ上昇率も利益率も「丸興」が最高であったのはいうまでもありません。しかし徳生さんは自ら社長の座につくことはなく、専務取締役として手腕を振るい、昭和42年に引退しました。

 小学校教員時代の徳生さんを知る人が、「誰よりも熱心でおとなしい青年だった」と語る一方で覚えたての英語でガイド無しでアメリカ旅行に夫婦で出かけるという大胆さも持ち合わせていた徳生さんですが、何事にも謙虚で私生活では、倹約を旨としていました。「お金は社会の預かりもの。たまたま私が預かっているが、いつかどこかへお返しせねばならない。」  そして、徳生さんにとって決して忘れることのなかった故郷の玉川町に、九和小学校の建築、屋内運動場建築、玉川町保険センター建築と次々に資金を提供し続け、多額の寄付をされました。玉川総合公園建設計画を知るや、千葉県に持つ土地を玉川町に寄付、町はそれを売却し建築資金としました。この時、公園に徳生さんの銅像を立てたいと町が申し出ると、「政治家ならともかく、商人がそんなことをしたら末代まで笑い者だ。子孫までその謗りは免れない。私が死んでも銅像は残る。それは絶対にいかん。二度と口に出さないでほしい。」と一喝され、頑として聞き入れてはもらえなかったのでした。しかし何としてでも謝辞を表したい町は、半ば強引に運動場広場を「徳生ひろば」と呼ぶことにしました。「そこまで気を遣っていただいて有難うございます」と徳生さんも頭を下げたといわれています。
「徳生ひろば」にある記念碑文
『商イハオ客サント共ニ栄エ、利運ノ財ハ社会ニ還元スル』

次に徳生さんが取り組んだのが、情報教育の一環である芸術で豊かな心を育てたいと願い、いろいろなプロセスを経て、美術館建設を思い立ったのですが、この建設には故大川栄二氏について少しお話しなければならないでしょう。

 月賦販売で栄えた「丸興」も経営不振に陥り、昭和58年よりダイエーの傘下に入りました。ダイエーの副社長だった大川さんは出向して「丸興」会長となり、采配を振るうことになったのです。初めて徳生さん宅を訪れた大川さんは応接間にかかっている絵を見て辛口酷評が第一声だったそうです。彼は実業家であると同時に蒐集家でもありました。また彼の著書『美の経済学』を精読した徳生さんは、大川さんに美術館建設の協力(主に作品に関するもの)を依頼しました。資金は全部徳生さんが用意し、完成後は玉川町に寄付、町に負担にならないよう当面の管理資金まで工面しました。

 美術館の収蔵作品中メインとなるのは、松本竣介です。竣介は13歳で難病にかかり聴覚障害者となり、画業に専念した画家ですが、その息子である松本莞氏が建築家となり玉川近代美術館を設計したのです。2階展示場が空中に浮かんでいるような大胆なデザインは、多くの建築家が注目し賞賛しました。  昭和61年12月3日、玉川近代美術館がいよいよ開館しました。京都近代美術館館長、河北倫明氏、南天子画廊社長、ダイエー社長の各氏、財界人、美術館関係者著名人が全国から来館。総勢160人の臨席の下、盛大に華やかに開会式のセレモニーが執り行われました。